[禁じられた時代に育まれた、養生の知恵]
薬喰い(くすりぐい)とは、肉食が公には忌避されていた時代に、獣の肉を贅沢や嗜好ではなく、体調を整えるための「薬」としていただいた、日本独自の食の知恵です。
仏教的な価値観のもと、肉は「穢れ」とされてきましたが、寒さや病で身体が弱ったとき、人々は自然の力に助けを求めました。その折に選ばれたのが、山の命をいただく薬喰いでした。
このページでは、なぜ日本人が肉を禁忌としながらも「薬」として受け入れてきたのか。その背景にある歴史や言葉、そして現代のジビエへとつながる意味を、できるだけ平易な言葉でたどっていきます。
禁忌の裏で愛された「山の幸」
今でこそ「ジビエ」という言葉は、お洒落で洗練された食のイメージを持っています。
しかし、江戸時代までの日本では、仏教の考え方を背景に、肉を食べることは表向きには「穢れ(けがれ)」として避けられてきました。
だからといって、日本人が完全に肉を断っていたわけではありません。
寒さの厳しい冬や、病み上がりで体力が落ちたとき、人々は密かに、しかし切実に「山の恵み」を求めました。
それが「薬喰い(くすりぐい)」です。
薬喰いとは、肉を楽しみのために食べるのではなく、身体を整え、元気を取り戻すために「薬」としていただく食べ方のことを指します。
知恵が生んだ呼び名「山鯨」と「牡丹」
肉食が禁じられていた時代、人々は一つの知恵を生み出しました。
それが、獣肉を別の名前で呼ぶ「呼び変え」です。
猪の肉は、切り分けた肉の見た目が花びらに似ていることから「牡丹(ぼたん)」と呼ばれました。
また、脂が乗り、滋養に富んでいることから「山鯨(やまくじら)」とも呼ばれます。
鹿の肉は、赤く美しい色合いから「紅葉(もみじ)」、馬の肉は「桜」となりました。
猪肉:牡丹(ぼたん)
【薬喰いの「呼び変え」早見表(主なジビエ)】
ここでは、薬喰いの背景にある言葉の工夫をつかむための早見表として整理しています。
よく知られている「呼び変え」はその名称を記し、文献や地域差で揺れがあるものは、代表的に見かける別名を※付きで入れました。
| ジビエ(肉) | 呼び変え(江戸の言い方) | 一言メモ |
|---|---|---|
| 猪 | 牡丹/山鯨 | 脂の旨味。鍋や煮込みで身体が温まります。 |
| 鹿 | 紅葉 | 赤身中心。鉄分が多く、軽やかな味わいです。 |
| 馬 | 桜 | さっぱりした赤身。刺身や煮込みでも。 |
| 鴨(野鴨) | 銀杏(いちょう) | 鴨南蛮など、だしと相性が良い肉です。 |
| 鶏 | かしわ | 身近な肉ですが、呼び変えは今も残っています。 |
| 兎(野うさぎ) | 月夜(げつよ)※ | 月の兎にちなむ呼び名として語られます。 |
| 熊 | 山鯨(やまくじら)※ | 「山の肉」をまとめて呼ぶ総称として使われることもあります。 |
| 穴熊(アナグマ) | 狢(むじな)※ | 昔は区別されにくく、まとめて呼ばれた名です。 |
| 狸 | 狢(むじな)※ | 地域によってはタヌキも同じ名で呼ばれます。 |
| 雉 | 雉子(きじ)※ | 鳥類は、呼び変えよりも呼称がそのまま使われることが多いです。 |
| 鳩 | 山鳩(やまばと)※ | 呼び変えというより、野生個体を指す言い方です。 |
※ 印の名称は、地域や時代、文献によって揺れがあります。例えば「山鯨」は、猪だけでなく熊などの大きな四足獣を指す総称として使われることもありました。
鹿肉
これらは単なる隠語ではありません。そこには、「これは欲や娯楽のための食事ではない。身体を養うための薬なのだ」という、人々の強い意識が込められていました。
江戸の町には「ももんじ屋」と呼ばれる獣肉専門の店もあり、冬になると暖簾の向こうには、体力を求める人々の姿があったと伝えられています。
ちなみに、猪の別名として知られる「山鯨」ですが、かつては熊の肉を指してそう呼ぶこともありました。
江戸の人々にとって、山で獲れる大きな獣たちは、まさに「山に住む鯨」のような、圧倒的な生命力の象徴だったのかもしれません。
こうした呼び名の広がりからも、当時の人々がいかに山の恵みを特別なものとして捉えていたかが伝わってきます。
天然のサプリメントとしてのジビエ
当時の人々は、難しい理屈を知らずとも、経験によって理解していました。
猪肉を食べれば、冷えた身体が芯から温まること。鹿肉を食べれば、足腰に力が入り、疲れが抜けていくこと。
現代の栄養学の視点から見ても、その感覚は理にかなっています。
猪肉には、エネルギーを生み出すのを助けるビタミンB群が多く含まれ、寒さに負けない身体づくりを支えてくれます。
鹿肉は、高タンパクで脂肪が少なく、さらに鉄分は牛肉の数倍ともいわれています。
貧血予防や体力回復に役立つ、まさに「天然のサプリメント」といえる食材です。
まとめ|自分の身体を慈しむ「養生」の心
「薬喰い」の本質は、単に栄養を補給することではありません。
それは、自然と向き合いながら、自分の身体の状態を感じ取り、必要なものを選ぶという「養生(ようじょう)」の心です。
養生とは、病気になってから治すのではなく、日々の暮らしの中で心と身体のバランスを整える考え方を指します。
ジビエ・ライフが大切にしているのは、この古くて新しい感覚です。
山の恵みを「薬」として、感謝とともにいただく。
その一皿は、食事という行為を超えて、自分自身を慈しむ静かな時間へと変わっていきます。
神社を巡り、自然に手を合わせ、そしてジビエを味わう。
そこには、日本人が長く育んできた「生き方としての食」の原点が、今も息づいているのです。

